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楊雄(よう ゆう、542年 - 612年)は、中国の隋の皇族。観徳王。もとの名は恵。文帝楊堅の族子にあたる。 ==経歴== 楊雄の父の楊紹は、北周に仕えて、8州の刺史を歴任し、儻城県公の爵位を受け、叱呂引氏の姓を賜っている。 楊雄は、北周の武帝のとき、太子司旅下大夫となった。574年、武帝が雲陽宮に幸し、衛王宇文直が乱を起こして、その一党が肅章門を襲撃すると、楊雄は迎え撃ってこれを破った。位は上儀同に進み、武陽県公に封ぜられた。右司衛上大夫に累進した。大象年間、爵位は邗国公に進んだ。580年、楊堅が丞相となったとき、楊雄は畢王宇文賢の下で別駕をつとめており、司馬賢が楊堅を害そうとしていることを知って、楊堅に告発した。宇文賢が処刑されると、楊雄は功績により柱国・雍州牧に任ぜられ、相府虞候を領した。北周の宣帝が葬られるとき、諸王が変事を起こすのに備えて、楊雄は6000騎を率いて陵所に護送した。位は上柱国に進んだ。 581年、隋が建てられると、楊雄は左衛将軍となり、宗正卿を兼ねた。右衛大将軍に転じ、朝政に参加した。爵位は広平王に進んだ。高熲・虞慶則・蘇威とともに「四貴」と称された。 589年、司空に任じられ、清漳王に改封された。601年、安徳王に改封された。 605年、太子太傅に任ぜられた。606年、元徳太子楊昭が死去すると、鄭州刺史の事務を検校した。1年あまりして、懐州刺史に任ぜられ、間もなく京兆尹となった。609年、煬帝が吐谷渾に親征すると、楊雄は澆河道の諸軍を総管し、凱旋すると観王に改封された。 612年、高句麗遠征において、左翊衛大将軍を検校し、遼東道に進出した。瀘河鎮で病のため死去した。享年は71。司徒・襄国武安渤海清河上党河間済北高密済陰長平等十郡太守の位を追贈された。諡は徳といった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「楊雄 (観徳王)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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